島々を巡る風と祖父の記憶
2024.12.23
城間栄喜と紅型に込められた自然と意志
おはようございます。いつもブログをご覧いただき、本当にありがとうございます。紅型や城間びんがた工房を知っていただけることが、私たちにとって何よりの応援です。心から感謝しています。
今日は、私の祖父であり城間びんがた工房の14代目、城間栄喜について少しお話ししたいと思います。祖父が亡くなったのは私が中学3年生の頃(平成2年)で、その頃には祖父は隠居しており、仕事をしている姿を直接見ることはできませんでした。しかし、家族の語る祖父のエピソードや残された作品から、彼の強い意志と真剣な仕事ぶりを感じることができます。
終戦後の復興への誓い
祖父は38歳で終戦を迎え、疎開先から首里に戻ってきました。その時、目の当たりにしたのは、地面から上のものがすべて吹き飛んだ壊滅的な光景。首里城ですら土台以外は何も残されていなかったと言われています。その状況に愕然としながらも、祖父は**「文化の復興」**を自らの使命として心に誓ったのです。
当時、紅型の制作は限られた家系にしか許されておらず、伝統を守ることは閉鎖的な状況の中で行われていました。しかし、祖父は紅型の門戸を広げ、「やりたい」と志願する人々を受け入れました。この決断は、琉球王族や貴族のためだけの工芸だった紅型が、時代の変化とともにより広く受け入れられるきっかけになりました。
デザインに込められた祖父の記憶と風景
今回ご紹介する作品、**「石垣に芭蕉と高倉糸干しの段文様」**は、祖父が10歳から20歳にかけて石垣島で年季奉公をしていた頃の風景をモチーフにしています。戦前、城間家で反物50端が盗まれるという事件があり、その損害を埋めるため、祖父は石垣島で奉公に出されました。
石垣島では、漁師の手伝いや理髪店での労働をしながら、生計を立てていたと聞きます。当時の労働環境は非常に厳しく、命の危険を感じることもあったようですが、そうした環境で生き抜く中で、祖父の人間性や感性が育まれました。その経験が、戦後の紅型復興に向けた原動力になったのだと思います。
この作品に描かれているのは、祖父がその時代に見た芭蕉布を干す風景です。ギザギザとしたカラフルな模様は、糸を干している様子を表しています。3つの岩で囲われた場所に木の棒を差し込み、そこに糸を干す風景が、石垣島の日常的な光景として祖父の心に深く刻まれていたのでしょう。その風景が作品に命を吹き込んでいます。
沖縄の自然と伝統工芸の在り方
祖父の残した作品にはどれも、自然の力強さや温かさ、そして過酷な状況でも「美」を求め続ける意志が込められています。紅型は生活必需品ではありません。そのため、豊かな時代にこそ発揮される工芸と思われがちですが、祖父の時代に作られた作品を見ると、過酷な状況でも「これを見てくれる人、身につけてくれる人にとっては関係のないこと」と信じ、最善を尽くしたことが伝わります。
祖父はこんな言葉を残しています。
「紅型は沖縄の自然そのもの。」
その言葉を胸に、私は祖父が見てきた沖縄の風景や自然、そしてその精神を作品に込めていきたいと強く思っています。それは、単なる技術や伝統を守るだけでなく、沖縄の自然や文化を新たな形で未来へと繋いでいく挑戦でもあります。
次世代への想い
昭和、平成、令和と時代が進む中、紅型や道具も進化してきましたが、祖父の時代に根付いた精神は今も変わりません。この作品を見ながら、祖父が石垣島で見た風景や、復興への思いを想像するたびに、改めて自分の使命を感じます。私たちが作り続ける紅型が、どんな時代にも価値を持つものとして、未来の誰かの心に届くことを願っています。
城間栄市 プロフィール
- 昭和52年 沖縄県に生まれる。城間びんがた工房15代 城間栄順の長男。
- 平成15年(2003年) インドネシア・ジョグジャカルタ特別州にて2年間バティックを学ぶ。
- 平成25年 沖展正会員に推挙。
- 平成24年 西部工芸展 福岡市長賞 受賞。
- 平成26年 西部工芸展 奨励賞 受賞。
- 平成27年 日本工芸会新人賞を受賞し、正会員に推挙される。
- 令和3年 西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞。
- 令和4年 MOA美術館岡田茂吉賞 大賞を受賞。
- 令和5年 西部工芸展 西部支部長賞 受賞。
- 「ポケモン工芸展」に出展。
- 文化庁「日中韓芸術祭」に出展。
- 令和6年 文化庁「技を極める」展に出展。
現在の役職
- 城間びんがた工房 16代 代表
- 日本工芸会 正会員
- 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門審査員
- 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
- 沖縄大学 非常勤講師