謝罪から始まった本当の継承の瞬間

父から受け継いだもの ~謝罪と感謝の瞬間~

私が工房を引き継いだのは、35歳のとき。インドネシアでの染め物修行を2年間終え、帰国してから5年後のことでした。父が現役の職人として活動しているうちに代替わりをして、一緒に工房を切り盛りしていく――そんな「ソフトランディング」な経営移行をイメージしていました。伝統工芸を守り続けるためには、親祖先が何を大切にしてきたのかを深く理解する必要がある。その意識が私に、早い段階での工房引き継ぎを決断させました。

私の息子としての姿

続きのエピソードをお話しする前に、少しだけ私自身の「息子としての姿」についてお話しさせていただきたいと思います。
私は1977年7月、那覇市首里で生まれました。出生地は「メディカルセンター」というアメリカの病院でした。そのため、私が人生で最初に聞いた言葉は英語で、外国人の先生が「ヘイボーイ!」と言ったそうです。
母は沖縄最北端の島・伊平屋島の出身で、当時としては最先端の育児法を、私たち子どもにできる限り取り入れてくれました。私が生後3ヶ月の時には、豆乳を飲ませてくれたそうです。当時の育児トレンドだったと聞いています。

また、私の家庭には工房があり、赤ん坊の頃から仕事がすぐそばにある環境で育ちました。父が図案を描く作業机の膝の上に寝かされていたそうです。ものづくりが日常の一部だったのです。

笑い声が響く工房の記憶

私は城西小学校に通いました。この学校は、首里城の近くにある龍潭池という大きな池のすぐそばに位置していました。小学校から工房までの帰り道には、染め物工房がいくつも並んでいました。それぞれの工房では、真剣に作業をしていて笑い声はほとんど聞こえず、緊張感が漂っている印象でした。

しかし、城間びんがた工房に近づくと、遠くから笑い声が聞こえてくるのです。それが私の子供時代の工房の記憶です。笑顔と笑い声が絶えない環境で育ったことは、今でも強く印象に残っています。

自由奔放だった青春時代

ストレスの少ない環境で育った私は、非常に自由奔放に生きてきました。10代後半から20代前半にかけて、私は金髪のアフロヘアをしていて、「ゴールデンパセリ」と呼ばれていました。さらに、両耳には13個のピアスを開けていました。

振り返ってみると、父という歴史と責任のある立場を持つ人がいる中で、私は驚くほど自由に生きていたのだなと感じます。そんな私を受け入れてくれた家族には、感謝しかありません。

大人への歩み

20歳までの私の姿はそんなものでしたが、その後の人生で少しずつ変わっていきました。20代半ばにはインドネシアへ留学し、30代で結婚。そして35歳で工房を引き継ぎました。

35歳での引き継ぎは伝統工芸の世界では早い方です。父は53歳で工房を継ぎましたから、私自身も「若い」という感覚を持ちながらの挑戦でした。それから12年、今では47歳。工房を引き継ぎながら、私が本当に「父の仕事」を受け継いだ瞬間がいつだったのか、振り返る出来事がありました。


謝罪と感謝、そして気づき

工房を継いで5年目のころ。職人としての楽しさと、工房経営の難しさのギャップに苦しみながらも、少しずつ順調さを感じ始めていた時期です。ものづくりが好きで、職人としての表現を楽しみ、世の中に作品を発表することが嬉しかった私が、経営者としての役割を学びつつあった頃でした。

そんなある日、先輩職人から突然「最近、工房の調子はどうですか?」と聞かれました。私は素直に「順調です」と答えましたが、その職人は意外な一言を返してきました。
「まずは、栄順先生(私の父)に謝ってみたらどうですか?」

私は驚きました。比較的順調な工房運営だと思っていたし、何か父に謝るべきことがあるようには思えませんでした。しかしながら、言われた通りにしてみようと決め、翌朝、父に改まって謝ることにしました。


感情の解放と父の一言

普段は2人きりになることなどない父と向き合い、「改まった話がある」と切り出しました。気まずさと戸惑いを感じながらも、私は深々と頭を下げてこう言いました。
「今までごめんなさい」

その瞬間、腹の底から熱いものがこみ上げ、自然と涙があふれました。自分でも理由はわかりませんでしたが、「ありがとうございました」と感謝の言葉まで口をついて出ました。

父はそれを受けて、たった一言だけこう言いました。
「それがわかるなら、お前は大丈夫だ。」

そう言い残すと、いつものように工房の作業に戻っていきました。


受け継いだ希望と未来への決意

後日、その出来事を振り返ったとき、私は父の言葉の意味が少しずつわかるようになりました。父は戦争を9歳で経験し、家族を支え、琉球文化を守り抜いてきた人です。その背中を追いながら、私はただ工房を引き継ぐのではなく、父の思いや覚悟、そして紅型という文化そのものを受け継いでいく責任があるのだと気づかされたのです。

伝統工芸は、技術や作品だけではなく、そこに込められた思いと歴史も一緒に受け継ぐもの。その日、父に謝罪と感謝を伝えたことで、私は父からのバトンを正式に受け取ったように感じました。

これからも、琉球の伝統と父からの希望を胸に、工房を未来へ繋げる努力を続けていきます。

城間栄市 プロフィール

  • 昭和52年 沖縄県に生まれる。城間びんがた工房15代 城間栄順の長男。
  • 平成15年(2003年) インドネシア・ジョグジャカルタ特別州にて2年間バティックを学ぶ。
  • 平成25年 沖展正会員に推挙。
  • 平成24年 西部工芸展 福岡市長賞 受賞。
  • 平成26年 西部工芸展 奨励賞 受賞。
  • 平成27年 日本工芸会新人賞を受賞し、正会員に推挙される。
  • 令和3年 西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞。
  • 令和4年 MOA美術館岡田茂吉賞 大賞を受賞。
  • 令和5年 西部工芸展 西部支部長賞 受賞。
    • 「ポケモン工芸展」に出展。
    • 文化庁「日中韓芸術祭」に出展。
  • 令和6年 文化庁「技を極める」展に出展。

現在の役職

  • 城間びんがた工房 16代 代表
  • 日本工芸会 正会員
  • 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門審査員
  • 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
  • 沖縄大学 非常勤講師