「14代目の家から未来へつなぐ紅型の想い」
2024.11.17
こんにちは。今日は私の祖父、14代目・城間栄喜について少しお話しさせてください。祖父が亡くなったのは、私が中学3年生だった平成2年のこと。ずっと心に残っている存在です。
祖父は戦後、38歳で疎開先から故郷の首里に戻ってきました。けれども、そこには戦火でほとんど焼け野原となった首里の風景しかなかったそうです。祖父はその無残な光景を目にして、「紅型」を通して琉球文化をもう一度立ち上げることを心に誓ったのです。残っていたのは、金城町の石畳の道。それだけでした。祖父は、どうしようもない気持ちになるたびにその道を歩き、自分を励ましたと聞いています。
祖父の中にどれほど強い思いがあったのか、私には想像もつきません。ただ、そんな彼のもとで、家族と工房は守られ続けたのです。何もかもが不足していた時代の中で、男手一つで小さな子供たちを育て上げ、伝統の仕事を未来へと繋ごうとしていました。その長男が、私の父、15代目の栄順です。
そんな祖父も、私が子供の頃には隠居していて、私にとってはいつも笑顔で腕相撲を仕掛けてくる、穏やかな存在でした。10歳から20歳のころに石垣島で漁師の手伝いをしていたこともあり、腕っぷしが強く、よく力比べを挑まれたものです。でも、祖父の残した作品には、どこか彼の人生そのものが映し出されているように思います。言葉にはしませんでしたが、「琉球の思いを守る」という彼の使命が、静かに、でも力強く伝わってくるんです。
紅型を、そして祖父の生き様を振り返るとき、私はその仕事に対する姿勢に心を揺さぶられます。もともと紅型は、少数の人々のために特別に作られるものでしたが、戦後は違います。祖父は生活のためにポストカードを作って売り、家業を立て直す手段を必死で模索したと聞いています。そして時代が少しずつ回復してくると、次はどうすれば現代の人々に紅型を受け入れてもらえるのかを常に考えていたそうです。ポストカードからタペストリー、そして着物や舞台衣装へと少しずつ挑戦の幅を広げていったのです。
祖父の歩んできた道、それを今、私は少しでも近くで感じたいと願っています。今回の「祝いの布」展も、祖父が過ごした家を改装したギャラリーで開催します。この場所で、祖父の生きた時間やその息づかいを感じてもらえるなら、きっと紅型がもっと特別に思えてくるんじゃないでしょうか。祖父の作品を、そして私たちの工房が紡いできた歴史を、ぜひ感じに来てください。
芭蕉に糸干し風景
1908年生まれの祖父・栄喜は、10歳の頃に石垣島へ奉公に出されました。それは、城間家で反物50端が盗まれるという事件があり、その返済ができないために、代わりに身売りされたのです。もう100年近く前の、とんでもなく昔の話です。
祖父は10歳から20歳までの10年間を石垣島で過ごしました。理髪店の手伝いをしながら、漁師の手伝いもしていたようです。そんな過酷な時代に祖父が見ていた風景が、この「芭蕉に糸干し風景」です。
この作品には、当時の、そして今も残る石垣島の昔ながらの家並みが描かれています。ギザギザと並んでいるものは、機織りの際に糸を染めて仕事を始める前の様子を表しています。家の前の石垣に棒を差し込み、そこに染め上げた糸を干して乾かしていたのです。
また、昔の石垣島では、それぞれの家に子芭蕉の木が植えられていて、自分たちが着るものは自分たちで織っていたそうです。祖父が石垣島で過ごした10年間に見ていた景色が、この作品に込められています。
祖父が過ごしていた頃そのままの状態です
文化を伝える場所にしたいと言う思いもあり、コロナの前に一部を改装しました