他の伝統的な染色物との違いは、色に顔料を使用すること、型彫りに突き彫りを採用しているところなどです。本土の染織工芸品などとの違いとしてもうひとつあるのが、柄、デザインの季節感の表現です。
びんがたについて

紅型は、沖縄を代表する染の伝統工芸です。
その定義は、ルクジューの上で突き彫りされた型紙を用い、型を置き、柄部分の色に顔料を使い、手挿しで色を挿したもの。それを紅型と呼びます。 自然の色を原材料に手作業から生まれる美しい色合いには、太古から琉球の王家や氏族、諸外国の王家など多くの人々を魅了して止みませんでした。
昨今では、着物や帯などの和装、日常装飾品、着尺、訪問着、振袖、帯地、他に壁掛け、風呂敷(ウチクイ)、のれん、掛軸、その他装飾品の用途も広くなり、沖縄県内外の人々から歓迎されています。
びんがたの特徴

紅型の柄の多くには、あまり季節感がありません。
というのも、沖縄自体が亜熱帯気候に近いものがあり、本土のような季節感がほとんどないのもその要因であるのかもしれません。それでも「ハギ」や、「雪輪」等というような、沖縄には存在しない柄が古典に存在するのには、琉球が薩摩に支配されていた頃の影響か、古くからの本土との交流の中で生まれてきたものかもしれません。
また、「龍」や「鳳凰」などといった柄は中国の影響を受けた物と言われます。黄色の色が高貴な色として、用いられたのもまた大陸の影響でしょう。
文献等によると、紅型のおおよその期限は14世紀から15世紀頃とされていますが、正確な起源ははっきりしません。
紅型の独特で鮮烈な色は、日差しの強い沖縄の風景のコントラストを表現しているとも言われています。沖縄で見た紅型が、本土で見ると派手すぎて見えてしまうのは、沖縄の太陽光の違いかも知れません。
海の色や山の色、草木の色、空の色・・・沖縄のカラフルで鮮烈な色を体現しているのも紅型の特徴ともいえます。
「びんがた」という名前について
紅型(びんがた)と呼ばれだしたのは明治以降だとされています。それまで、地元では「カタチキ」(沖縄方言で「型を付ける」と言う意味)等と呼ばれていたそうです。
紅型の(紅)は沖縄では「色」を意味します。
よく、(紅)は赤と思われがちですが、琉球では(紅)を色の総称として考えられていました。従って「紅型」とは、「色」(顔料)と「型」を使った染色の技法名とも言えます。
しかし、紅型の技法は「型染め」だけでなく、「手書き」、「藍型(藍染)」も含まれます。
琉球藍を用いた染めを「藍型」とも称します。大きな風呂敷や、舞台幕などは現在でも手書きで染められる物がほとんどです。のれん等は両面染めの為、大変高度な技術を要します。
紅型の語源については未だ確実な定義がないようですが、現在では和装へもその地位を確立しつつあるほど、その名を広めつつあります。
海の色や山の色、草木の色、空の色・・・沖縄のカラフルで鮮烈な色を体現しているのも紅型の特徴ともいえます。


紅型への情熱を受け継ぐ——父・栄順の歩みとこれから
私の父、城間栄順 は、祖父・栄喜 の没後、その熱意と情熱を受け継ぎ、城間びんがた工房 の15代目として工房の発展に尽力しました。祖父から託された言葉のとおり、工房の環境や設備を整え、紅型の技術革新と後継者の育成 に力を注いできました。
代表的な作品の一つに、「海シリーズ」 があります。これは、父自身が実際に海に潜り、沖縄の美しい海中世界を体感した経験が色濃く反映されたデザインです。魚やサンゴを繊細な曲線で表現し、自然の生命力をそのまま布の上に描き出す。その豊かな表現は、多くの方々に支持されています。
また、紅型の着物や帯を**「和装」として確立** させたのも、父の大きな功績です。顔料が擦れやすいという課題を解決するため、できるだけ微粒子化させて生地への定着を強固にする技術 を開発。さらに、附下や訪問着など、より格式高い和装への展開にも取り組みました。
91歳を迎えた父と紅型の継承
現在、父は91歳。昭和9年生まれ、10歳で戦災を経験 し、その後、祖父とともに紅型復興に取り組んできました。戦後の混乱の中で、祖父とともにこの伝統を守り続けた父は、仕事を続けることの大変さを身をもって知っていたのだと思います。
父は常々、「真面目に仕事をしていれば、誰かが見てくれている。誰かが認めてくれている。自分から何かをアピールする必要はない」と言い、自分自身の作品に対してさまざまな挑戦を続けながらも、それを積極的に発信したり、自ら見てもらう機会を作ることはほとんどありませんでした。それが、父なりの職人としての誇りであり、信念だったのでしょう。
また、父が一貫して取り組んできたのは、20名前後の職人を抱え続け、技術をみんなで守る という姿勢でした。工房の中には、外に出してはいけない貴重な技術や考え方、思想 があります。しかしながら、一度工房に入った者には、すべてを伝え、すべてを教える。そうやって技術を次世代へと受け継いでいくことを、父は何よりも大切にしていました。「一人で守るのではなく、みんなで続ける」——それが父の覚悟だったのだと思います。
私自身が受け継ぐもの
12年前、私が工房を継いで16代目となって以来、父が何を大切にしてきたのか、そして私自身が工芸を通して何と向き合い、何と戦うべきなのか を日々考えています。紅型の世界は、昔ながらの技法を受け継ぎつつも、新しい技術やアイデアを取り入れながら進化し続けています。
現在、父は後継者の育成 に力を注ぎながら、新たな作品制作にも余念がありません。御年91歳、今でも工房内を飛び回り、土日祝日も関係なく現役で仕事を続けています。 その背中を見て育った多くの若い紅型作家たちが、現在も各地で活躍しています。
紅型の未来に向けて
現代の紅型は、昔ながらの技法を受け継ぎつつも、より多様な表現へと進化 しています。地元で行われるコンペティションや沖展 などにも若手作家が多く出展し、紅型の世界は新たな広がりを見せています。
紅型がより多くの人々の生活に浸透するには、まだ時間がかかるかもしれません。 しかし、これからの時代に向けて、新しい技法やアイデアがどのように生まれ、どのように発展していくのか。私は、この伝統の未来に大きな期待を寄せています。
びんがたの作業道具
筒

ルクジュー

琉球の智恵が生んだ道具「六寿(ルクジュー)」
紅型の型彫りに欠かせない道具のひとつに、「六寿(ルクジュー)」と呼ばれるものがあります。これは沖縄の一番涼しい時期に、豆腐を乾燥させて作る特殊な下敷き です。およそ10センチ四方の大きさ で、一丁の豆腐を加工して作られます。
この道具は、型紙の下に敷いて型彫りをする際の下敷き として使用します。紅型の型彫りでは、刀の鋭い切れ味を保つことが非常に重要です。そのため、この六寿は油に漬けて保存される ことで、湿気による刀の錆びつきを防ぐ 役割も果たします。また、表面がボコボコになってもカンナで削れば再利用できる という利便性の高さもあり、琉球時代から今日まで受け継がれてきた伝統的な道具 なのです。
六寿を作る——伝統と現代の課題
この六寿は、毎年1年分をまとめて作ります。 沖縄の真冬の時期に作り、天日干し して完成させていきます。毎年約40個を仕込みますが、そのうちの3分の1から半分は使い物にならなくなる こともあります。これは、近年の気候変動によって、沖縄の冬でも暖かい日が続き、適切に乾燥できなくなってきている という事情が関係しています。
六寿は単なる道具ではなく、「毎年作って使う」 というリズムそのものが、琉球時代から続いてきた仕事の流れ でもあります。これを守り続けることが、伝統の継承であり、琉球文化を未来へと繋げること なのです。
六寿の優れた機能性——先人の智恵
六寿がこれほど長く使われ続けてきた理由の一つに、弾力のコントロールができる という点があります。私自身、六寿を作るのに3ヶ月もの時間がかかる ことや、うまく乾燥できなかった場合に腐敗臭のする状態で仕事をしなければならない ことを考え、「何か代用品があるのではないか?」と模索した時期がありました。
シリコンやゴムのボード、油分の多い柔らかめの石鹸など、さまざまな素材を試しました。中でも、油分を多く含む石鹸は六寿に近い感触でしたが、汗や水分を吸い込むと表面が滑ってしまうという問題がありました。結果的に、「突き彫り」という鋭い刃物を突き立てながら彫る作業には、六寿の適度な弾力とサクサクとした彫り心地が最も適している という結論に至ったのです。
この検証を経て改めて感じたのは、先人たちの智恵の深さ です。琉球の職人たちは、単に手に入る材料を使っていただけではなく、仕事の精度を高めるために最適な道具を発明し、洗練させてきた のです。今でもこの六寿が最良の道具として使われているという事実は、彼らの自然への洞察力や、ものづくりに対する探究心の高さ を物語っています。
未来へつなぐ琉球の知恵
六寿は、決して派手な道具ではありません。しかし、この小さな豆腐の塊が、職人の手によって長年受け継がれ、今も紅型の制作を支えています。現代では、効率化や新素材の開発が進む中で、こうした昔ながらの道具の価値を見直すことが、伝統を守る上で欠かせない視点 なのかもしれません。
私も、こうして六寿を作り続けながら、先人たちが守ってきた技術と仕事のリズムを、未来へとつないでいきたい と考えています。
コチニール

琉球の交易がもたらした「コチニール」——高価な染料の歴史と職人たちの工夫
サボテンにつく虫を乾燥させたもの から得られる深い赤色の染料、それが「コチニール」です。この染料は、日本画にもよく使われ、煎じて色素を取り出すと鮮やかな赤色の顔料になります。現代の日本では手に入りにくいものですが、交易の盛んだった琉球王国には中国経由で輸入 されており、当時から非常に貴重で重宝された材料 でした。
「綿臙脂」として輸入された琉球王国時代
琉球王国時代、この染料は単なる粉末として輸入されたのではなく、「綿臙脂(わたえんじ)」と呼ばれ、木綿に色素を吸わせた状態 で届けられたとされています。これは、絵の具としてより使いやすくする為に色素を布に染み込ませて保存・運搬するための工夫だったのかもしれません。
琉球王朝の記録には、当時の貿易による輸入量がしっかりと記されており、それがいかに貴重な材料であったかがうかがえます。現在でも高価なコチニールですが、当時はさらに貴重であり、自由に使うことは許されていませんでした。王府から職人に材料が与えられる際には、まず小さな布で試し染め を行い、その結果をもとに必要量が決められるという厳格な管理がされていました。
職人たちの知恵と苦労——染料を飲み込んで持ち帰る?
この厳しい管理の中で、一部の職人たちは「ある工夫」をしていました。限られた材料しか支給されないため、顔料を飲み込み必要量以上に使ったと報告する という手段をとる者もいたそうです。現代では考えられない話ですが、それほどまでに材料の確保が難しかった時代の話として、職人たちの切実な思いが伝わるエピソードでもあります。
しかし、当時の琉球では科学的な知識がまだなく、現在では使用禁止とされている有毒な染料も使われていました。例えば、ヒ素を含んだ黄色の「石黄(せきおう)」や、水銀を含んだ「銀朱(ぎんしゅ)」 などが使用されていた記録があります。これらの危険性が知られていなかったため、時には職人たちが誤って口にしてしまうこともあったのかもしれません。そう考えると、顔料を飲み込み必要量以上に使ったと報告する行為も、現代の視点では非常に危険なものであった ことがわかります。
現代のコチニール事情
現在でも、この貴重なコチニールは、京都の日本画の材料店で手に入れることができます。しかし、かつてはメキシコから輸入されたものを使用しており、その品質には「当たり外れ」があった という話をよく聞きました。特に不思議だったのは、メキシコから届く商品の成分表がなぜか剥がされていることが多かった ことです。
この品質の不安定さは、特に高価な染料であるコチニールにとっては大きな問題でした。職人たちは、その年によって色の出方が違うことに悩まされながらも、工夫を重ねて最適な方法を模索してきました。現在では、京都の日本画材料店で安定した品質のコチニール を購入できるようになり、職人たちも安心して使用できる環境が整っています。
伝統技術と染料の歴史を未来へ
紅型の染料の歴史を振り返ると、それは単なる技術の継承ではなく、職人たちの知恵と創意工夫の積み重ねであることがよくわかります。限られた資源をどう活用するか、時代とともに変化する環境にどう適応するか。紅型の技術を未来へとつなぐためには、こうした歴史の知識もまた大切な「技」として学び、活かしていかなければなりません。
今も昔も、職人たちが「最高の色」を求め続けていることに変わりはありません。その営みの中で受け継がれた技術や知恵が、これからの紅型をさらに豊かにしていくと信じています。
コチニール粉末

紅型の赤に欠かせない色の原料です。
この粉末をもとに様々な色あいを出していきます。これと、本藍を混ぜるとキキョウ色。黄色に混ぜて、赤みを出したりします。